家族に寄り添うこと


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晴れ渡った空の高さがすがすがしい秋の日、日暮れの早さに驚くばかりである。
人生の黄昏時を今かみしめている私にはわが身に置き換えて侘しさを感じざるをえない。

お預かりしている高齢者は、人生の終の時間をまもなく迎えつつある。人生はある意味平等だと思う。
華やかな日々を送ってもまた落穂拾いのような日々を送ってもその終焉の時は等しくいつか必ず訪れる。若い頃からその日までをどう生きるかは日頃から考えておかないとならないことである。

日本は高度成長期に入るまではまだまだ家族が介護を主に自宅で負担してきた経緯がある。
その頃の看取りは家族介護の延長線にあり、日頃の関わりの集大成がその時だったと考えられる。そして、お別れの儀式としての葬儀が残された者のためにあった。故人を偲んで、それぞれの想い出の中に、一つのけじめを葬式によってつけたように感じられる。

この2年半ほど、勤務先でお預かりしてきた利用者が急変で亡くなった。2年半もの生活の寄り添ってくると、スタッフにも様々な想い出が残る。人生の終焉のこの2年余りは認知症に廃用症候群が加わり、老衰が進みながら途中で大腿骨頸部の骨折事故があって手術したりといろいろなことがあった。

急変搬送先の病院で息を引き取った。家族もその最期の時には間に合わなかった旅立ちだった。
片道2時間の上をかけて、毎週1回は代わる代わる面会に来てくれていた心のある家族だった。

夜勤あけのユニットリーダーと駅で待ち合わせして、お葬式に参列させてもらっ た。
葬儀の後の花入れと火葬場への霊柩車を見送りながら、「最期のお別れに来てやっぱりよかった・・。」とリーダーがつぶやいた。「けじめがつきましたね、気持ちの。」と返した。

「急変して搬送してそのまま亡くなる・・」というのは、現場で働くスタッフには一番中途半端な別れとなると思う。

主が戻らなかったお部屋には、白い花を生けた花瓶と桜の小枝を抱えて微笑んでいる写真が飾られている。

人の死に関わる専門職をしてきて数えきれない死と直面してきている私にとって、スタッフの中には幼いころ祖父母が亡くなった時の記憶しか人の死に関わったことのない世代がいることに最近気がつき、 「人の死」をもっと身近に感じる体験が必要だとつくづく感じている。

そうでなければ、残された家族の思いに寄り添うことができないように思う。

「先日はお参りにきてくださってありがとうございました・・」という御挨拶をいただき、「御淋しいですね。」と声をかけた。

「ええ・・でもまだ90過ぎた父を支えていかないとなりませんので。」とおっしゃった。
最愛の母は亡くなったが、彼らには自分たちの気持ちを奮い立たせてくれる、生きている父がおられたことが救いだったのかもしれない。寄り添って、支え合って生きているかぎり、家族の歩みは後ろ向きではなく、前に向かって生きていく姿に育ってい くことがなんとなくわかったような気がした。

日頃から家族の代わりに私たちスタッフはなり得ないといいつつ、人生の最期の時間を家族以上に濃密な蜜月を送らせていただけたことに深く感謝する次第である。